2020年NHK大河「麒麟が来る」は、光秀の死をもって最終回でしょう。
しかし光秀は死んではいなかったという説があることを知っていますか?
1582年6月13日、光秀は敗死しさらし首にされたことは間違いありません。
ではなぜこのような説が生れたのでしょうか?
光秀天海節の根拠
この説は大正時代に生まれたものです。
須藤光輝が指摘したもので、根拠がいくつかあるようです。
●天海の遺品のなかに甲冑と鉄砲が現存するため、元は武将だったと考えられる。
●栃木県の日光に「明智平」と呼ばれる場所があり、天海が名付けたと伝えられている。
●徳川家光の乳母は光秀の重臣斎藤利三の娘、春日野局というのは有名だがそれだけではない。
●家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣、溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
●明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたことが分かっており、それぞれが奉納した地蔵菩薩像が京の廬山寺と江戸の正徳院にある。
●天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にある。
●関ケ原の戦いで豊臣についた大名の中で徳川に許されたのは、光秀とともに戦った者だけ。
●日光東照宮には明智の桔梗紋がある。
光秀が生き延びていたという根拠
天海と光秀を結び合わせるためには、当然光秀が生き延びていなければなりません。
ここにも「生き延びていた」とされる根拠があるようです。
●京都宇治の専修院と神明大明神には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿ったと言い伝えられている。
●『和泉伝承誌』には、山崎の戦いの後、光秀は和泉に向かったと書かれている。
●本徳寺には光秀が潜伏していたという言い伝えがあり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という唄が残っている。
●光秀が死んだとされる後に、光秀の名前で比叡山に寄進された石碑が現存している。
光秀は天海であるという説は真実か!?
年齢的には天海と光秀は近かったそうです。
晒し首という史実が無ければ、もしかしたらと考えてしまうような根拠が目白押しです。
さてここでそれぞれの根拠を検討してみたいと思います。
まず明智平の件は、あくまでも言い伝えであり正確な事は分かっていません。
ただし、現地の観光案内には、天海僧正が自分の名を残すために名付けたと紹介されています。
東照宮で桔梗紋とされるものは、織田家の家紋である木瓜紋(もっこうもん)です。
また建物の装飾に使われた唐花紋が桔梗紋に似ていることから近年になって誤解を生んだようです。
乳母の人選や関ケ原後の大名たちの処遇については、推測の域をでません。
もしかしたら明智への思いや繋がりが徳川にあったのかもしれません。
光秀とある石塔については、明智光秀その人であるという証拠は何もありません。
当時光秀という名はありふれた名前だったため、どこの光秀なのか特定できなのです。
生き延びていたという説は全て言い伝え程度のものとされています。
天海が見せた光秀の影
あくまでも逸話として伝わっているものです。
始めて徳川家康と面談した天海は、人払いまでして長い時間親しく話をしたそうです。
まるで旧知の友と再会したかのようだったと伝わっています。
そして豊臣を滅亡させた大阪の陣、きっかけは方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」という銘が、家康という文字を故意に分断させたという事件でした。
これにも天海が関わっているのではと疑われ、光秀の豊臣潰しの一計だったのではとささやかれています。
信長の焼き討ちで荒廃した比叡山を再興したのも天海でした。
光秀の贖罪ではともいわれています。
光秀と天海が別人であることは、史実から明確に分かっています。
しかし生き延びた光秀が天海だったらと思うと、ワクワクすることは間違いありません。
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