2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の最大のクライマックスになるだろう本能寺の変。
未だにその原因が判明していないことから、謎が謎を呼び憶測とも妄想ともつかない謎解きが後を絶ちません。
そういう筆者も同様ですが、気になる原因説を見つけたので解説してみたいと思います♪
以前紹介した「本能寺の変原因説」は、こちらを参照してください。
四国を巡る信長と元親の攻防が本能寺の変の原因か!?
元親とは土佐の藩主・長曾我部元親のことです。
元親の妻は、明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹に当たる人で、元親と信長を結ぶ窓口は光秀が任ぜられていました。
四国は全て元親の自由にさせると明言していた信長でしたが、自分の情勢が変わったことによりこの盟約を破棄。
突然、土佐と南阿波(愛媛県)のみにしろと通達します。
元親はこれに対し、「我が力で取った土地だ」として反発。
関白の近衛前久にも仲介を頼んだりしましたが、元より朝廷を屁とも思わない信長はそれを受け入れず、四国征伐を決めました。
信長は三男・信孝を総大将として、四国討伐軍を編成。
元親は強大な信長軍の侵攻を恐れ、恭順の意をしたためた手紙を送っています。
その手紙の日付が5月21日。
本能寺の変が6月2日。
この手紙が発見されたのが2014年でした。
この5月21日は当時の日付であり、6月2日は現代の日付です。
思った以上に時間が無い中での発送だったため、この手紙が信長に届かなかったことが推察されます。
一方、仲介を取っていた斎藤利三や主の明智光秀には、元親の恭順の姿勢が伝わっていたはずです。
進軍間近の四国討伐軍をおさえるため、本能寺の変が起きたという説は、この辺りから発せられているようです。
☆『本能寺の変から死ぬまでの光秀』の記事はこちらへ ☟☟
長曾我部元親とは
長曾我部元親は1539年、土佐岡豊の長曾我部国親の嫡男として生まれました。
生まれつき背が高く、1日中奥の部屋に引きこもっているためか青白い顔をした青年だったそうです。
今でいう引きこもりの元祖のような嫡男で、「姫若子(ひめわこ)」とも揶揄されていました。
父・国親は元親の余りの大人しさに、「当家もお終いだ」と嘆いていたと伝わっています。
しかしいざ戦となると予想をはるかに上回る武勇を見せました。
武芸全般に疎かった姫若子は、家臣に槍の使い方を聞きました。
家臣が伝えたのは「ただ敵の目を突けば良い」というものでした。
『土佐物語』には、本隊とは別に20騎ばかりで布陣した元親は、50騎で攻めてくる敵を突き伏せ大声をあげて部下を鼓舞し、長浜城・浦戸城を奪うことに成功したとあります。
比叡山と対立している最中の信長にとって、四国から中国地方の毛利などを牽制できる長曾我部は便利だったに違いありません。
しかし比叡山焼き討ち後、その状況が変わっていきました。
一領具足といわれる土佐独自の軍役制度と、元親の並外れた才覚を知った信長は、天下布武の妨げになると考えたのかもしれません。
本能寺の変後、最初は秀吉と敵対した元親ですが、総勢10万を越える兵に侵攻されやむなく秀吉の軍門に下っています。
そして秀吉の九州征伐に参加しましたが、この時嫡男・信親を島津氏に討たれています。
中央進出の夢を断たれ、愛息・信親を失い、失意の中で1599年京都伏見の屋敷で亡くなっています。
仁の人だった光秀だからこそ有り得る?
勇猛果敢な智将であり、温情熱い人でもあった光秀ですから、元親に対する同情は並々ならぬものがあったのかもしれません。
また平気で前言を撤回する信長に対する憤りもあったでしょう。
こうした事を考えると、もしかしたら本能寺の変の原因は四国・長曾我部元親だったのかもしれませんね。
本当の原因は、もちろん光秀のみが知るところです。
しかしこうした妄想や憶測の中に、真実が隠れている可能性が大きいと筆者は思っています。
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