2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀の血が令和の今上天皇に続いているという話。
本当かどうか検証してみました♪
明智の家系図はかなり信用度が低いのは周知の事実。
妻についても、側室は持たなかったという愛妻家として聞こえていた光秀ですが、現在は側室の子の子孫だと名乗る人が沢山います。
家系図改ざんの多くは、子孫を自称する人物がいなかった子を書き加え、その子孫に成りすますというのが普通です。
有名人でありながら逃げ隠れをする必要があった明智光秀の家系図は、改ざんするにはうってつけだったはず。
では天皇家との血筋は検証できなかったのでしょうか。
はい!できました。
それでは明智光秀から今上天皇までの家系図を紹介します。
明智光秀の子孫が今上天皇かを検証
結論からいうと、明智光秀と今上天皇は繋がっています。
しかしそれは光秀の娘で、細川ガラシャとして名高い珠ありきの話です。
細川家からしたら、「明智ではなく細川の血だ!」と言いたいのではないでしょうか。
では光秀の血を今上天皇に繋げてみましょう。
光秀の娘、珠は細川忠興に嫁ぎ5人の子をも受けます。
ここから二つの流れが派生し、どちらも今上天皇につながるのです。
ガラシャの娘 多羅の流れ
ガラシャの娘多羅は、光秀の重臣であり春日野局の父、稲葉一鉄に嫁ぎます。
その子である恒通が娘を公家の勧修寺家に嫁がせました。
子の経逸が敬明の養子となり3人の子を授かり、長女が光格天皇に嫁ぎ次の天皇である仁孝天皇を生みます。
この仁孝天皇が、光秀の血縁であるもう一つの血流と出会います。
仁孝天皇は孝明天皇の父であり、孝明天皇から明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇と続き令和の今上天皇に繋がります。
ガラシャの息子忠隆の流れ
細川家、ガラシャの長男忠隆は前田利家の娘千代を娶りました。
その子、徳が西園寺実晴と結婚。
生まれた娘が久我通名と結婚し、二人の子を授かります。
余談ですが、娘貞子が伊達藩5代藩主伊達吉村に嫁ぎ、その子村子が第3代岡山藩主池田継政に嫁いだ先の子孫が、第79代内閣
総理大臣だった細川護熙氏です。
ここで明智光秀の妻、熙子の熙が復活したのは偶然に過ぎないはずです。
紆余曲折で細川に戻った経緯は置いておいて、先を続けます。
久我の子に廣幡豊忠という人物がいて、久我の息子なのに廣幡って・・・という所ですが、詳細は不明です。
その娘が正親町実連と結ばれ、娘の雅子を授かります。
そしてここで光秀のもう一つの血流と出会い、雅子は仁考天皇と結婚し、孝明天皇の母となり明治天皇へと続くのです。
江戸時代の婚儀の通例
昭和の前半は、結婚は家と家が行うものという認識が強かったように思います。
家の格式が合う者同士の結婚が普通で、そうでない結婚が認められたのは昭和の後半だったのではないでしょうか。
江戸時代はその傾向が更に強く、しかも家の格式の変動が少ない時代でした。
必然的に家格と等しい家柄同士での通婚が当たり前という時代でした。
細川家は江戸時代を熊本藩主として生き残り、その婚家は仙台の伊達家、岡山の池田家、臼杵藩稲葉家、公家の西園寺家、勧修寺家、久我家、正親町家などの狭い範疇にあったといえます。
それゆえに残った明智の血ですが、残るべきして残ったのか・・残ったと言えるのかどうかは不明です。
明智光秀の子
光秀の子は何人だったのか・・・・側室はいたのか・・・
当時の宣教師だったルイス・フロイトが書いた「日本史」には、光秀の子は2人とあります。
子の意味は、あくまでも男児という意味です。
これは津田宗久が書き残した「天王寺屋会議」にも父子3人とあるため、子供は2人と推定できます。
一方女児は、珠以外に2人いたことが分かっています。
織田信澄の正室と荒木村次の正室です。
計6人の子供が確認できますが、側室の子は存在が不明です。
今上天皇に続く明智光秀の血は、細川家に珠(ガラシャ)が嫁いだからこその結果でした。
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