渋沢栄一とは 簡単にいうと・・・簡単ではないですがというのが正直なところですが。
一言で言うなら、紀元前中国の大商人、白圭のような人物・・・でしょうか。
幕末から明治にかけてのバリバリの商人として直ぐ頭に浮かぶのが、岩崎弥太郎ではないでしょうか?
現代も勇名を馳せる三菱財閥の創始者です。
それに対し、双極に位置したのが渋沢栄一です。
全ての利益と事業の管理までを独裁的に行ってきた岩崎弥太郎に対し、富は人の役に立ててこそその役割を果たすと考えていたのが渋沢栄一です。
日本で初めての株式会社(当時は合本組織)というものを設立し、現在株式市場一部上場で大会社として君臨する様々な会社の創設に携わり、支援もしてきた人です。
中国紀元前の孔子が伝えた論語を自身の生き様の柱とし、武士道精神を合わせ持ち、決して欲張らず、人のため国のために奔走した人生でした。
そんな渋沢栄一の生涯を、このページでは簡単に紹介します。
渋沢栄一は討幕派からの幕臣へ たった10年間に何度も起きた人生の大転換
まさに明治維新真っただ中に、渋沢栄一はフランスのパリにいました。
だから国内の幕府の転覆やそれに伴う騒乱を目にすることはありませんでした。
しかしこの時の栄一の立場は、どっぷりハマった幕臣です。
何しろ、15代将軍徳川慶喜公の弟の留学を補佐してのパリでした。
10代の栄一は、家業の藍玉の買い付けに奔走する傍ら、6歳のころから学問の手ほどきを受け、旺盛な知識欲を見せ物覚えがよい少年でした。
そんな栄一に最初の影響を与えたのが、従弟であり四書五教(論語・孟子)を教えていた尾高保孝です。
結果栄一は尊王攘夷に夢中になります。
父親に勘当願いを出してまで、攘夷運動に没頭していくのです。
倒幕のため挙兵しようとした矢先、それがバレて、逃げ込んだのが慶喜の家臣、一橋家の側用人・平岡円四郎でした。
一橋家の家来になるよう平岡に勧められた栄一ですが、最初は固辞していたようです。
幕府から追い詰められていることを知った栄一は、一橋家に士官する以外逃げる手立てが無くなりました。
元々算盤勘定に長け、人当たりもよく、頭の回転が速い栄一でしたから、みるみるうちに出世。
そうした最中、慶喜が15代将軍になってしまったのです。
これで渋沢栄一はどっぷりの幕臣です。
フランスが慶喜に万博への参加を打診してきました。
今後の日本の発展のためには西洋を学ぶ必要があると考えた慶喜は、弟の留学もその時決断しています。
そしてその留学に付き添っていったのが渋沢栄一です。
それも慶喜自らが彼を選んだということですから、突出した才覚があったのでしょう。
フランスで学んだことは、その後の栄一に大きな影響を与えます。
先述した合本組織もフランスで体得した事の一つです。
幕府終焉後、静岡に蟄居した慶喜のもとへ栄一は戻ります。
そこから栄一の商才が花開いて行くのです。
合本組織による商法会所をつくり新たな事業を起こし、静岡藩の財政を潤しました。
それが明治政府の耳に届くこととなり、民部省(現・大蔵省)への出仕を要請されたのです。
最初は固辞した栄一ですが、大熊重信らに説得され、民部省租税正(みんぶしょうそぜいのかみ)として勤務をすることになりました。
大久保利通の理に合わない財政要請に嫌気がさし、たった3年間の勤務に終わましたが、基盤づくりの礎となったことは間違いありません。
民間人となった渋沢栄一は、それまでのパイプを駆使し、自分の商才を存分に発揮していきます。
そして「近代資本主義の父」と称されるまでになりました。
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渋沢栄一とは まとめ
人の役に立ちたい!国の役に立ちたい!
渋沢栄一の根幹には常にそれがあります。
農民として生まれ25歳で一橋家に仕え、ヨーロッパの列強を見聞し、帰国後は大蔵省の官僚となり、34歳で民間の実業家へと転身しています。
激動の時代だったがゆえではあるでしょうが、ここまで人生が転換した人も珍しいのではないでしょうか。
次回からは渋沢栄一の生涯を、もう少し詳しく紹介していきます。
今後発表されるキャストが誰なのか、想像しながら登場人物を追っていきましょう。
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