坂本龍馬in神戸といったら、当時の海軍操練所が真っ先に思い浮かびます。
勝海舟に弟子入りし、操練所の初代塾頭となった坂本龍馬。
たった1年間という短い期間でしたが、神戸での生活は夢があふれた楽しい時期だったに違いありません。
ただ、実際はこの期間もあちこち飛び回っていたらしく、じっくり腰を落ち着けていた様子が無いのは龍馬らしいですね。
では、坂本龍馬ゆかりの地「神戸」の史跡を紹介します♪
神戸海軍操練所跡碑
1863年、黒船が浦賀にやってきてからというもの、幕府がそれまでは考えてもいなかった海岸防備の必要に迫られました。
時の将軍徳川家茂が勝海舟を伴ない視察にやってきたのが神戸です。
なぜ神戸だったのかというと、江戸時代の末期に網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が築いた「船たで場」(船底に付いた貝殻や船虫などを焼くための施設)の設備を利用できるのではと考えられたからといわれています。
総敷地面積は1万7,137坪、東京ドーム約1.2個分という敷地に、海軍兵学校・機関学校・造船所・塾生たちの寮なども備えていました。
ここの初代塾頭が坂本龍馬だったことは、誰もが知るところです。
当時乙女姉さんに送った手紙によると、塾生は200人~300人と書かれています。
100人も誤差があるって、アバウト過ぎると思いませんか?
実際の人数は定かではありませんが、明治の日本に貢献した人材を数多く輩出したことでも、操練所の意義があったと思われます。
しかし、蛤御門の変に反幕府側として参加した者が操練所の塾生であることが判明。
勝海舟は幕府の嫌疑を受け1865年3月に神戸海軍操練所は閉鎖されてしまいました。
その後、勝は江戸にもどり、坂本龍馬は長崎に行き薩摩藩の後見を得て亀山社中を起こします。
勝海舟と坂本龍馬は、これ以降再び再開することがないまま幕府は終焉を迎えました。
操練所跡には海軍操練所跡碑があります。
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近くにはこれとは別に「坂本龍馬と神戸海軍操練所記念碑碑」もあります。
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勝海舟寓居跡
勝海舟が操練所が出来るまでの間、借り住まいとして建物があります。
ただ、個人所有のため中を見る事はできません。
この当時は勝がいるところには龍馬もいたでしょうから、この寓居跡にも坂本龍馬は頻繁に訪れただろうと考えます。
この家は、兵庫の豪商である生島四郎という人物の別邸でした。
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海軍営之碑
勝海舟直筆の碑文が書かれています。
神戸市章の電飾で有名な「市章山」の麓にある「諏訪山公園」内の高台に、神戸市街を見下ろすようにその碑は建っています。
この「海軍営之碑」は、将軍家茂の神戸来訪を記念して作り、神戸海軍操練所に建てようしていたものです。
しかしたった1年で操練所は閉鎖となり、高さ2mもある石碑は生島家の庭に埋められていたそうです。
その後半世紀が経ち、大正4年(1915年)に土中から掘り起こされ、この地に移され今も神戸を見下ろしています。
この海軍営之碑は、レプリカが海軍操練所博物館近くにあります。
勝海舟が書いた碑文の中に、坂本龍馬という文字がありますので是非探してみてください。
諏訪山公園の海軍営之碑はこちらです。
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湊川神社
楠木正成が祀られている神社、楠公さんとも呼ばれています。
坂本龍馬は楠木正成が大好きだったことから、絶対参拝に訪れているはずだと推察します。
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坂本龍馬ゆかりの地神戸についてまとめ
一度は殺さなければとまで思った勝海舟の弟子になり、世界に向けた目が一気に開いたのが神戸だったのではないでしょうか?
佐幕派も勤王派も、武士も百姓も、隔てなく受け入れた勝の度量も大きさもあって、龍馬の心は大きく育ったのでしょう。
それにしても残念だったのは、たった1年で閉鎖されてしまったという事です。
時代の流れとは、こうして神憑り的に作られていくものなのだと、改めて感じました。
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