坂本龍馬ゆかりの地というと、志士として暗躍した京都や亀山社中を起こした長崎が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか?
しかし東京にも、坂本龍馬ゆかりの地はあります。
日本の夜明けを構想する前の、若いエネルギーに満ちた龍馬が江戸にやってきたのです。
そして龍馬が始めて相思相愛の仲になった女性も江戸にいました。
そんな坂本龍馬ゆかりの地、龍馬が愛し愛された女性についてもを紹介します。
■目次
坂本龍馬関連史跡紹介

龍馬は3回江戸に行っています。
そして3回目が勝海舟との出会いでした。
世界に目をむけ未来を創造するという龍馬の視点は、江戸(東京)で完成されたものといっても過言ではありません。
勝海舟と坂本龍馬の師弟像
2016年9月に完成したばかりの新しい「坂本龍馬ゆかりの地」です。
場所は赤坂にある旧勝邸跡。(現在は老人ホームになっています)
像は勝が座った姿勢、龍馬は立った姿勢ですが、どちらも視線は東を向いています。
その視線の先にあるのは太平洋、そしてアメリカでしょうか。
ニコライ堂
ヨーロッパ風の建築が目を引くニコライ堂(正式名:東京復活大聖堂教会)は、龍馬の親戚にあたる山本(沢辺)琢磨が建設に尽力した教会です。
この山本は、若いころ酒に酔って盗みを働き切腹沙汰になるところを、龍馬と武市半平太に助けられ逃げ出したのです。
その後、日本人では始めての日本ハリストス正教会初の正教徒(ハリスチャニン=クリスチャン)になり、日本人始めての司祭となりました。
そしてこのニコライ堂建築に大きく関り尽力したのです。
少しこじつけ感はありますが、龍馬たちが山本を助けなかったら、ニコライ堂は無かったかもしれません。
そう考えると「ゆかりの地」の一つとしても良いのではと、筆者は考えた次第です。
北辰一刀流道場・玄武館跡(岩本町)
坂本龍馬が北辰一刀流の免許皆伝という、非常に優れた剣士であったことは有名です。
龍馬が通った道場は、通称「小千葉」といわれた千葉周作の実弟の道場でした。
千葉周作の玄武館にも時々顔を出し、腕に磨きをかけていたという履歴が残っています。
浜川砲台跡
ペリーは一度帰国したものの、半年後の1854年再び日本にやってきました。
土佐藩は防衛のために、下屋敷内の立会川河口に『浜川砲台』を築きました。
そこで初めて、龍馬は黒船を自分の目で見たのです。
大きな黒い船体、煙突からもうもうと上がる煙、しかも4隻の船団です。
龍馬はいったいどんなことを感じ考えたのか、興味深い出来事ですね。
勝海舟邸跡
龍馬が生涯の師と仰いだ勝海舟の屋敷跡です。
龍馬も何度も訪ねたかもしれませんね。
坂本龍馬初恋の人

桶町にあった小千葉道場で龍馬は定吉の長女、「佐那」と相思相愛の仲にもなったという話は有名です。
千葉佐那は剣術のほか馬術、長刀などの武術にも長け、学才にも優れており、さらに美しい女性だったということです。
佐那は龍馬の没後も龍馬への思いを捨てず、生涯を独身で通しました。
没後というか、待っていた佐那ではなくおりょうを選んだ龍馬を、こんなにも愛し続けていた佐那という女性も一途に熱い人だったようですね。
しかし、この佐那が龍馬の初恋の人ではありません。
龍馬の初恋は郷里の加尾ではないかといわれています。
嘉永5年(1852)山内容堂の妹、恒姫(ひさひめ)が三条公睦(きんむつ)に嫁ぐ時、加尾も恒姫に従って京で暮らしたこともありました。
なんと龍馬は加尾に男装して、勤王のため働くことを誘う手紙を送ったそうです。
よほど一緒にいたかったのでしょうね。
加尾のお墓は青山墓地にあります。
まとめ
龍馬が東京に行ったのは、最初は純粋に剣術を磨くためだったようです。
2回目も千葉道場に再入門していることから、動機はやはり同じだったのでしょう。
しかし3回目は、脱藩し情報収集のための江戸行でした。
勝海舟についても、開国を唱える勝をけしからんと思い、斬るために勝邸に入ったという説もあります。
しかし勝の話を聞くうちに、龍馬の目は大きく開かれたのでしょう。
女性に持てて熱い男、坂本龍馬の魅力が東京にも溢れていました。
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