岐阜県の明智光秀ゆかりの地、最後のご紹介になります。
今回は余波になる朝倉氏と土岐氏の関係、光秀の母の墓所とそれについての現代の解釈を紹介しましょう。
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十五社神社(じゅうごしゃじんじゃ)
平安時代に創建された神社で、土岐氏が氏神として崇敬していました。
「社伝によると、826年5月のある日、激しい雷と雹の中、天之常立神と天神七代、地神五代の17柱の神々が降り立ち、国内守護のためこの地に神社を祀るようにと命じて去っていったという。一説に、『美濃国神名帳』に載せる山県郡12社の中の「正四位下 裁主明神」であるという。」とWikipediaにあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/十五社神社
土岐頼芸が大桑城城主となったおり、石清水八幡宮を合祀して「十五社大権現」と改称し、以後土岐氏の氏神とし祀っていました。
土岐氏の氏神様だったのですから、当然土岐支流に当たる明智家にとっても大切な神様だったと考えます。
ところで、1540に土岐氏が奉納した越前産笏谷石製の狛犬一対が現存しています
実はこの狛犬こそが、土岐氏と朝倉氏の友好関係を物語っているといわれています。
越前産笏谷石(えちぜんしゃくだにいし)は、現代では福井ブルーとしても珍重されている石です。
最近でこそ神社の狛犬などで見かけることが多くなった石ですが、朝倉氏時代にはほとんど藩外への流出がなかったことが分かっています。
朝倉氏にとって需要な人物にのみ、越前の特別な石を贈っていたと解釈できます。
「越前以外で朝倉氏時代とみられる笏谷石の狛犬は、現在のところ、岐阜県の2か所や滋賀県など計5か所しか確認されていない」と話すのは狛犬を中心に石造物を研究している福井県立歴史博物館の瓜生由起学芸員。
その見つかった5カ所の中で一番古いのが十五社神社の狛犬だということが分かっています。
光秀が美濃を追われたあと向かったのも朝倉氏。
代々の土岐氏は朝倉氏と深い関係にあったと推察できます。
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磔の刑により悲運の最期と遂げた母・於牧の方の墓があります。
暴れん坊将軍でお馴染みの八代将軍吉宗が「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を公表した翌年、里人が「南無阿弥陀仏」とだけ刻んで建立したとあります。
「公事方御定書」とは、有名な目安箱の設置を始め、犯罪に対する細かな刑法までも定めたものです。
この中に何かしら墓所の建立を許可するような文言があったのかもしれません。
さてこの於牧の方ですが、磔の刑などあり得ないというのが昨今の解釈です。
八上城は1年以上も籠城戦を続け城内には無残な餓死者の山ができていたといいます。
そんな中、「開城の条件として明智光秀の母・於牧の方を人質によこすなら・・」という交渉があり、光秀は母に説得される形で八上城に送りこんだというのがストーリーです。
しかしこれらを素直に考えると、後ひと踏ん張りで間違いなく開城せざるを得ない八上城に人質を渡すはずがありません。
史料的価値が比較的高いとされる「信長公記」にも、それらの事実は見当たりません。
なぜ本能寺の変が起きたのか!江戸時代でもそれは謎だったに違いありません。
歌舞伎や浄瑠璃などでそのナゼを分かりやすくするための創作だったと考えられています。
では、於牧の方の墓は?
創作された明智光秀の物語を本当のことと信じた里の人たちの勘違い・・・そういってしまえば身も蓋もありません。
彼らの純粋な想いが墓を作ったのだと真摯に受け止めるべきではないかと、筆者は思います。
地図はこちらを参照してください。
https://www.kankou-gifu.jp/spot/5830/
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