渋沢栄一たちの目標は、パリの万博だけではありません。
欧州列強の文明をその目で見、学ぶことが最も重要な任務でした。
しかし、フランスからの借款の約束を反故にされた渋沢たちには、その経費がありません。
いったいどうやって、徳川昭武の欧州歴訪と留学のための経費をねん出したのでしょうか?
ゴネる水戸藩士・なだめる渋沢栄一
欧州各国を歴訪するにあたり、先立つものがありません。
徳川昭武は、8月のスイスを皮切りに、オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス・ドイツ・ロシアの七か国を歴訪する予定でした。
会計係の渋沢栄一は、お金の工面に奔走します。
各国金融機関と折衝し、オランダ貿易会社のハンドル・マスカペー氏から5万ドル。
イギリスのオリエンタル銀行から5千ポンドを借りることに成功。
しかし、この金額では、徳川昭武に随行する人数を絞る必要があります。
そこで留守番を伝えられたのが、水戸藩士7名でした。
ここで水戸藩士が大変な剣幕でこう言いました。
「民部公子(徳川昭武)のお供をするのが、我々のお役目。それが出来ぬなら、民部公子を一歩たりとも外に出してはならぬ!」
なんかさぁ…プライドを傷つけられた駄々っ子の様子がありありだと思いませんか?
一方、世間知らずの徳川昭武も、こういいます。
「小姓が共をしなければ、各国へはゆかぬ!
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で、この交渉を任されたのが渋沢栄一でした。
渋沢栄一は、水戸藩士と膝を突き合わせて談判します。
「これほど説明してもご理解いただかけないということであれば、全員帰国するしかあるまい。しかしここまで来て他国に行かないというのは、将軍の命に従わないということであり、日本国の理を考えても、どうかと思う。帰国するか、山高殿(徳川昭武の傳役)の命に従うか、二つに一つ」
というのが、渋沢栄一の話の持っていき方でした。
喧々諤々の話し合いが水戸藩士内で行われましたが、なかなか回答がでません。
それをじっと見ていた渋沢栄一は、頃合いを見計らって次のような提案をします。
「民部公子の歴訪は、幕府からの送金を待って何回かに分けていく必要がある。そこでどうだろう。1回の歴訪に対し、お三方が共をするというのは。藩士の方々は、だれでも1度は民部公子のお供をすることになる。これでお役目を果たせるのはないだろうか。これで良ければ、山高殿にお願いしてみよう」
実はこの3人がお共をする話は、山高には事前に了解を得ていたことだったそうです。
困り果てていた水戸藩士が、この話に乗らないはずがありません。
交渉とは、まさにこうしたことであり、最初に渋沢栄一に目をかけてくれた一橋家の側用人・亡き平岡ゆずりのものでした。
挽回を見せる幕府の面々
パリでは薩摩藩にしてやられた幕府ですが、ここで巻き返しを狙います。
幕府から急遽派遣された外国奉行・栗本らが持ってきたのは、日本がどのようにして幕府体制になったのかを記した本と、幕府が琉球は幕府から薩摩藩に寄与されたものであることを示す書物でした。
これを訳し各国公使に配るとともに、高名な新聞にも掲載するよう、ロッシュにすすめられていたのです。
こうしたこともあり、フランスが反故にした600万ドルの借款は、蝦夷地産物開発権を担保に、改めて交渉の舞台にあがったのでした。
スイスでは、軍事演習・最新の武器貯蔵庫・時計工場・絹織物工場・金銀の細工工場・電信機工場を、続くオランダではダイヤモンドの研磨工場などを見学し、ジュネーブ湖やアルプスの山々に驚嘆し、楽しんでいる様子が、渋沢栄一の『航西日記』に書かれています。
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