藍香を師とし、尊王攘夷の思想にどっぷり浸かった渋沢栄一は、ペリー来航から始まった開国と交易を要求する各国に対する幕府の態度に、少なからず憤りを感じていたでしょう。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の動きも、この頃から舞台が広くなってきます。
まずは当時の時代背景を紹介します。
ペリー来航 その時幕府と朝廷は!?
1858年、将軍家定は、後に安政の大獄で刺殺される井伊直弼を大老に任命しました。
欧米列強との修好通商条約の締結問題、将軍の世継ぎ問題など、難題を抱えており、決着が急がれていた時期でした。
当時の天皇・孝明天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約に調印。
自由貿易による通商が約束されたものの、治外法権や関税自主権のない不平等条約でした。
幕府としては、少し前に起きた英仏連合VS中国・清王朝の戦いで、清が破れ不平等極まりない条約を締結させられたのを知っており、アメリカに擁護してもらう意図も含まれた条約だったようです。
幕府内でも、次期将軍を狙って一橋派と南紀派が対立していました。
頭脳明晰な慶喜を押す一橋派、血筋を重んじる南紀派が争い、結果南紀派に擁立された徳川慶福(よしとみ)、後の家茂が13歳で徳川14代将軍となりました。
一方、朝廷側のトップである孝明天皇は攘夷論者でした。
開国に対し強烈に反対を叫んでいたのです。
幕府が朝廷の許しを得ずに修好通商条約を結んだことに激しい異を唱えていました。
また、そのことを井伊直弼に問いただし攻めた水戸・尾張・越前の諸侯が罪に問われ、隠居や登城禁止とされたことに非難をしてもいます。
そしてそれを文章化した勅諚が、幕府ではなく水戸藩に渡されたのです。
大老井伊は、幕府の権威がないがしろにされたと怒り、9月に入ると関りのあった人々を次々に逮捕するという安政の大獄が始まったのです。
井伊大老への反発を強めた水戸浪士らによって、1860年(安政7年)桜田門外で暗殺されました。
これを桜田門外の変というのは有名ですが、井伊直弼に続いて幕府の実権を握った老中・安藤信正も坂下門外の変で水戸浪士に暗殺されています。
通商条約によって庶民の生活も一変し、悪化の一途を辿ります。
高値で取引される生糸や油などは生産者が直接貿易を始めたため、生活物資の不足が蔓延しました。
貨幣交換も決して平等のものではなく、日本からは金貨が流出し、国内の物価も急上昇することになります。
渋沢栄一の動き
激動する江戸末期、渋沢栄一たちも熱っぽく国家を論じ議論することを楽しみとした毎日を送ってたようです。
そんな中従兄が江戸から憂国の志士を連れて血洗島村にやってきます。
生で聞く江戸の状況や雄藩の動向、異国の人々の話などを聞き、どうしても自分の目で今の江戸を見たいと強く思います。
農閑期の2ヵ月だけという約束で父に許しを貰った栄一は、22歳の春に江戸に向かいました。
攘夷派と開国派、尊皇派と佐幕派が入り乱れ、抗争が続く江戸。
2ヶ月の間栄一は、有名な神田お玉が池にある千葉道場を訪ねたり、儒学者・海保漁村の塾で漢籍を学んだりつつ、有能な志士との交流を深め、やはり天下国家を論じて熱い血潮をたぎらせていました。
千葉道場を訪ねた時期を考えると、坂本龍馬とももしかしたらすれ違っていたかもしれません。
2ヶ月の約束を守って5月に帰宅した栄一は、興奮冷めやらぬ体で江戸の志士たちの様子を尾高達に熱っぽく語ったと伝わっています。
渋沢栄一 嫁をもらう
栄一の父は、家の後継ぎである栄一が国政に強い関心を持っていることに心配していました。
嫁を貰い子でもできれば落ち着くだろうと考えた父は、栄一19歳のとき、尾高の妹千代18歳と結婚しました。
男の子もできましたが、はしかにかかりわずか6ヵ月で亡くなっています。
この間、栄一の関心事は妻でも子でも稼業でもなく、国事のみでした。
上記で初めて栄一が江戸に向かったのが22歳のときですから、既に結婚し子を授かり、その子を見送った後の出来事です。
江戸から持ち帰った熱い思いを捨てることは叶わず、あろうことか栄一は討幕を企てる尊王攘夷の志士になっていきます。
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