土田御前、あなたはどう読みますか?
私はずっと「つちだごぜん」だと思ってました。
しかし「どたごぜん」説が有力なようですが、どちらの説が正しいかは喧々囂々の最中らしです。
織田信長の生母として知られた土田御前、2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、檀れいさんが演じます。
戦国武将の母、土田御前とはどんな女性だったのでしょうか。
土田御前の生涯
天下日人を目指す信長の母ですが、若いころウツケと呼ばれた信長を嫌い、弟・信勝ばかりを可愛可愛がっていた人物という説がありますが、果たして真実は?
土田御前は、実名は不詳。
別称は花屋夫人。(←意味が分かりませんが…)
法名は報春院花屋寿永大禅尼(花屋寿永大姉とも)。
信長、信行、秀孝、信包、市(浅井長政→柴田勝家正室)、犬(佐治信方→細川昭元正室)の生母。
土田政久の息女とされていますが異説もあり、その生涯は想像の域を出ないところではあります。
信長と信行の家督争いで信行が敗れると、信長に信行の赦免を願い出、最初は許されています。
しかし二度目の反逆では土田御前の力及ばず、信長に誅殺されています。
その後の土田御前は、信長や市と共に暮らし、幼かった信長や市の子供たち(信忠、信雄、信孝、茶々、初、江など)の面倒を見ていたと伝わっています。
本能寺の変で信長が死去した後は、孫の信雄の庇護され、「大方殿様」と尊称され、640貫文を化粧料として与えられていた記録が残ってます。
1590年の信雄の改易後は伊勢国安濃津の信包のもとに引き取られ、文禄3年(1594年)正月7日に同地で死去しました。
法名は報春院花屋寿永大禅尼(花屋寿永大姉とも)。
土田御前は本当に信長を嫌っていた?
史書として真実味が高いとされている「信長公記」では、次のような記載があります。
信長が計略のため重病のふりをしたときも、信行に「日頃のことはともかく、実の兄上なのですから、お見舞いに行きなさい」と言っていたことが、信長公記に書かれています。
信行死後は信長と暮らしていたわけですし、伝え聞くほど信行寄りとは思えません。
母として子を持つ人なら、親子の関係にも相性があることを実感していませんか?
同じように苦しい思いをして生んだ子でも、同じように育てた兄弟でも、愛情に変わりはないが何となく・・・
そんな普通の女性だったのではないかと推察します。
土田御前の出生は?
「どたごぜん」か「つちだごぜん」か。
土田御前の呼び名となった土田氏説である土田氏が美濃可児郡の土田であれば「どた」
尾張清洲の土田であれば「つちだ」となります。
一方、『美濃国諸旧記』によれば、信長生母は六角高頼息女とされています。
津島大橋記』『干城録』によれば、信秀正室・信長生母は小嶋信房息女とされています。
この人物が土田御前以前の信秀継室(織田達勝息女・小嶋信房息女)であるのか・・・この場合は土田御前は信秀の二人目の正室。
土田御前と呼ばれる人物そのものが、本来は小嶋信房息女であるのかは不明。
信秀の息女「くらの方」が大橋重長に嫁ぐ際は、わざわざ小嶋信房の養女として輿入れしています。
織田信秀(信長の父)と小嶋信房の関り深さが感じられます。
それなりの身分の高い家に生まれた女性は、名があり名で呼ばれるのは嫁ぐまでというのが当時の風習でした。
帰蝶が信長に嫁いだ後は、美濃の姫という意味で「濃姫」と呼ばれていたのもそれに由来します。
土田御前も、父方の名か生まれ育った土地の名を冠にしたはずです。
文字の読み書きをできる人物が少なかった当時では、全ては推察の域を出ません。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の土田御前は、檀れいさんですから、美しい母親であることには間違いないでしょう。
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