オランダでダイヤモンド研磨工場を見学した後、通訳のシーボルトに誘われて、彼の父親の別荘に一行は向いました。
父・フィリップ・シーボルトは、シーボルト事件で有名な人です。
ちなみに、シーボルト事件とは…
“ドイツ出身の医師であるシーボルトが帰国する際、国外への持ち出しを禁止されていた日本地図などを持ち出そうとしていることが発覚、シーボルトを含む役人・関係者が処罰された事件のことです。”
シーボルト自身は国外追放を受けています。
実はこれらの盗品が、ライデンにある別荘には所狭しと飾られていました。
庭は日本庭園であり、書画や骨董まで、幅広く収集されていたのです。
これらは、オランダの国命によるもので、植物学・動物学・地理学・日用品から美術品まで、膨大な量を持ち出していました。
息子であるシーボルトが、幕府とフランスの結びつきを弱めるため、スパイとして活動していたとしても、何ら不思議ではありません。
シーボルトのスパイ説
日本から来た栗本たちは、シーボルト解雇を訴えますが、山高らは各国の言葉に精通し気配りもできるシーボルトを手放すことを躊躇するという一幕もありました。
ここでいったん休憩した昭武一行は、次はベルギーを訪問し、盛大な歓迎を受けています。
ベルギーの後、渋沢栄一一行はイタリアに向かいます。
ここに立ちはだかるのが、ヨーロッパアルプスです。
彼らが行ったのは、鉄道が開通する1年ほど前のこと。
馬車でアルプスを越える必要があります。
ここで渋沢栄一の『航西日記』を見てみましょう。
「朝6時。ジリジャスという馬車2輌をやとって出発。奇岩絶壁に石畳の道がかろうじてへばりついているような様子になってきたので、馬車を降り歩いて山頂によじ登った。
サンミールからスーザまで、馬車の馬を6回も変えた。はじめは2匹、続いて4匹または6匹、中あしゃ頃は8匹、けわしい道では12匹で引いた。険しさ、困難さは、これを見ただけで理解できるだろう」
徳川昭武と渋沢栄一一行は、後にも先にも、馬車でアルプスを越えた唯一の日本人となりました。
やっとの思いでイタリアにたどり着いた徳川昭武一行は、国王に謁見し勲章を授与されています。
首都フローレンスで議政堂や石細工所を見学。
ピサの斜塔を目の当たりにして、倒れない建物に驚いた様子が伝わっています。
通訳のシーボルトは、オランダではなく、イギリスのスパイでした。
この後、イギリス側の対応が大きく変化します。
しかし渋沢栄一たちは、どんな理由があるのか分からないが、イギリスが変わったと感じただけで、シーボルトを疑ってはいませんでした。
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今も残るシーボルトの書簡
シーボルトのルポが、今もイギリス文書館に、そのまま残っているそうです。
宮永孝氏の著書『プリンス昭武の欧州紀行』という本には、次のような文があります。
「イギリスのスパイとして昭武一行の船に乗り込んだシーボルトは、公子をはじめ、向山駐在公使や山高らの側近を丸め込むことに成功した。一行の行動をつぶさに、イギリス外務省のハモンド外務次官に報告していた」
そしてその報告書こそが、まだイギリス文書館に残されているルポ、そのものです。
しかも、シーボルトのスパイ行為は、この後も全く露見することなく、明治新政府に仕えることまでしました。
自らの国益を最優先として考えるイギリスの諜報活動は、この時代にはすでに凄まじいものだったことが伺いしれます。
まさにお国柄、『007 ジェームズ・ボンド』を生んだ国です。
この後、渋沢栄一・徳川昭武一行は、流されるようにイギリスとの友好関係を築くことになります。
次回はイギリスの歓迎の様子と、そこで書かれた渋沢栄一の『航西日記』を紹介します。
そして欧州列強を歴訪するなかで、渋沢栄一が実際に見聞きし、考えたであろうことも推察してみたいと思います。
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