2020年NHK大河「麒麟が来る」では、俳優の上杉祥三さんがキャスティングされています。
すっかり歴史オタクの仲間入りをしてしまった筆者は、上杉と聞くとあの上杉の末裔?と過剰反応してしまいます。
それはいったん置いておくとして、平手政秀がどんな人物だったのか紹介します♪
平手政秀の生涯
平手政秀は、信長の父、織田信秀に仕えていた重臣です。
生まれたのは『尾張群書系図部集』によれば、延徳4年(1492年)5月10日と記されています。
勇猛果敢な武将であり、茶道や和歌にも秀でており、交渉の達人だったという稀有な人物です。
信秀の名代として朝廷との交渉を担っていたのも平手政秀でした。
和睦を祝う書にも紀貫之の歌を用いるなど、文面が見事であったことが伝わっているほどです。
そして信長が生まれると、信長の教育係である傅役(もりやく)になりました。
1547年には信長の初陣を後見し、翌1548年には敵対していた美濃斎藤道三とも和睦。
この時、平手政秀の計らいで、帰蝶と信長の婚姻が成立しました。
当時の信長は「おおうつけ」と揶揄されており、父信秀が死去すると織田家には不穏な影が差し始めます。
後継者として信長を押すものと、弟信行を支持するものに派閥が分かれ始めていました。
こうした中、主君織田信秀の死を追うようにして政秀は自刃しています。
平手政秀の自害と織田信長
平手政秀の自害には幾つか説があるようです。
・不甲斐ない信長に対し、死をもって諫めるため
・政秀の息子の馬を信長が欲しがり、断られたことを根に持っていることを知って、一族に被害が及ばないよう死をもって償った
・信行を後継者として推す面々との亀裂
一番知られているのが、信長を諫めるという説です。
信長にとって政秀は、父信秀よりも強い繋がりがあったのではないかと考えます。
だからこそ政秀に対する甘えもあったのではないでしょうか。
政秀の息子の馬を欲しがるといった子供じみた行動や、それを根に持ったというのも事実として伝わってはいますが、それさえも愛情に恵まれなかった信長のヤキモチのような気さえします。
「政秀寺古記」という書物があります。
中島清一 編 名古屋史談会が昭和7年に編纂したものです。
当時のことを調べて書かれたものですが、史実としての信頼がどれほどのものかは定かではありません。
この政秀寺古記には、次のような内容が記されています。
「信長公は益々我儘になり、注意してもそれを煩く感じるようで、最近では聞く耳を持たなくなってしまった。
腹を切って忠心からの言葉であると信じてもらう以外、手段が亡くなった」
こうして政秀は腹を切り、家のものに急ぎ信長を呼びに走らせたそうです。
駆けつけた信長は「なぜこんなことをした!」と取り乱し、脇差に縋りついたと書かれています。
最後の力を振り絞った政秀は、信長になにやら伝え、それを聞いた信長は「これからはそなたの意見の通りにするから、早く手当てをしろ」と切腹を止めに入りましたが、政秀は十文字に腹を掻き切って絶命しました。
62歳でした。
信長公は、その亡骸に抱き付き、その嘆きと悲しみ様は甚だしいものであったということです。
まるで芝居のような光景ですが、この後の信長は本当に変わっていったのです。
政秀の供養のために政秀寺を建立し、喪に服した直ぐ後から目覚ましい活躍が始まったのです。
政秀が亡くなって3か月後、帰蝶の父斎藤道三との始めての対面がありました。
対面の直前、生まれて初めて髪を折り曲げに結い、褐色の長袴をはき、小刀を差し、正装し、信長は見事な変身を遂げます。
信長の正装した姿を始めてみた家中のものたちは、「今までのうつけは演技だったのか」と驚いたそうです。
信長と面談した道三も、「わしの息子たちも必ず、あの大うつけの門前に馬をつなぐ(家臣になる)ことになるだろう」と言ったそうです。
そしてそれは現実のものとなりました。
平手政秀の自害で目が覚めた信長が、やがては戦国の覇者となるべく走りだしたというのも、あながち嘘ではないのかもしれません。
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