頑固一徹の語源になった人物として知る人ぞ知る稲葉良通(一鉄)。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、村田雄浩さんが演じます。
もしかしたら本能寺の変が起きた原因は、一鉄かもしれないという説があることを知っていますか?
他に考えられる要因と比べたら地味ですが、家臣に情が深い光秀の立場から考えると、あるかもしれないという話です。
では稲葉一鉄の人となりを紹介させて頂きます♪
稲葉一鉄の生涯
一鉄という名は、出家した際の号になります。
1515年美濃の国人・稲葉通則の六男として、美濃池田郡本郷城で産まれました。
幼少時に崇福寺で僧侶となり、快川紹喜の下で学んでいましたが、1525年の牧田の戦いで父と5人の兄達が全員戦死したため還俗し、家督を継いでいます。
後見となった塩塵(えんじん)は、一鉄の祖父にあたる人物で、稲葉家の租となった人です。
最初は土岐頼芸に仕え、土岐氏が道三に敗れてからは道三に仕え、その後は織田、豊臣と主を変えています。
ちなみに頼芸の側室で後に道三に嫁いだ深芳野は実の姉と伝わっており、春日野局にとっては養父であり母方の祖父になります。
斎藤道三に仕えていた頃から「美濃三人衆」の一人として活躍しています。
道三と嫡男義龍との争いでは義龍側に付きました。
義龍には名君の器があったそうですが持病により早逝してしまい、美濃は織田に下ることになりました。
織田軍でも同様に頭角を現します。
一鉄を一躍有名にしたのは姉川の戦いです。
姉川の戦いに際し、信長が家康に自分の家臣を好きなだけ連れて行けと言いましたが、家康はそれを拒否。
家康軍は当時最強の三河武士と謳われた軍団であり、織田軍は寄せ集めの傭兵が多い集団でした。
再度の信長からの申し入れに家康が選んだのが、稲葉一鉄のみでした。
一鉄は1000人の兵を率いて先陣を務め、朝倉勢を押しつぶしました。
強軍として名高い浅井勢と対峙した織田軍は劣勢を強いられていましたが、稲葉軍が浅井軍の右翼を崩し織田を勝利に導きました。
これに感激した信長が稲葉良通に対し、自分の一文字である「長」を授けると、当時としては最高位の褒美を渡そうとしましたが、一鉄はこれを受け取らす、その時から号である「一鉄」を使い始めています。
本能寺の変で信長が斃れてから、一鉄は秀吉に仕えます。
一鉄69歳、1584年の小牧・長久手の戦いを最後に、戦においてはお役御免とされていたようです。
その後は四年ほど穏やかに過ごし、元祖「一徹者」は戦国武将には珍しく畳の上で往生したのでした。
稲葉一鉄と本能寺の変の関係
明智光秀の家臣で有名な斎藤利三(春日野局の実父)は、一鉄の娘婿にあたります。
一鉄も利三を気に入ったからこその婿であり、一鉄にとっては重臣の一人として頼りにもしていたでしょう。
ところがこの利三は、一鉄を離れ光秀に仕えるようになりました。
利三に去られた一鉄は激怒し、光秀に利三を解雇するよう何度も迫りますが光秀は断固として拒否。
埒が明かないとみた一鉄は、今度は信長に訴えました。
信長もその意を光秀の伝えますが、明智軍にとっては重要な存在となっている斎藤利三を手放すはずがありません。
度重なる稲葉一鉄からの訴えと、繰り返されるやり取りに業を煮やした信長は、とうとう利三に切腹を命じます。
それが本能寺の変のわずか5日前のことです。
こうしたことから、本能寺の変のきっかけの一つではという説が囁かれています。
稲葉一鉄の逸話
稲葉一鉄はとっても逸話の多い人物です。
まず最初の主君であった土岐頼芸を保護し、美濃に帰れるよう信長に働きかけました。
土岐頼芸は斎藤道三に美濃を追放された後、各地を転々とし最終的に甲斐の武田氏に保護されていました。
信長が武田勝頼を滅ぼした際に身柄が発見ましたが、頼芸は80才を超え、既に失明しており、余命いくばくもない状態でした。
一鉄のはからいによって、最後の半年間を安らかに故郷美濃で過ごすことができたのです。
この他にも、常に小銭袋を持ち歩き、道端ですれ違う僧侶や修験者に銭を与えていたそうです。
「我が家祖の塩塵(通貞)は飢えながら諸国を遍歴していた。一飯の銭が相手を、そして自分を助けることになる」というのが一鉄の思いでした。
あるときは敵の間者が僧侶に化けていたこともあったようですが、一鉄はいつものように銭を与えました。
間者はそのため、一鉄を「誠の仁者」であると主君に報告したという話も伝わっています。
他にも沢山の逸話がある稲葉一鉄ですが、村田雄浩さんが描く一鉄はどういう人物になるのでしょう。
ワクワクしっぱなしの2020年大河ドラマ「麒麟が来る」ですね♪
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