2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀が築城した城をpart1に引き続き紹介します♪
明知光秀の城「亀山城」
丹波攻略を命じられた光秀は、1578年に亀山城(別名亀岡城)を築きました。
丹波平定後は領国を差配する拠点とされた城で、三重の天守が築かれていたといわれています。
本能寺の変ではこの亀山城から軍勢を出発させています。
徳川政権下でも亀山城は重要な拠点と考えられ、藤堂高虎の縄張りによって現在の形になり本丸には5重の層塔型天守が上がりました。
光秀が行った縄張りは現在にはまったく残っていないという残念な結果となってしまいました。
1877年(明治10年)に政府が廃城処分を決定し市町村に払い下げられれ転売された結果、新協宗教団体である大本の聖地となっています。
大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め徹底的な弾圧を加え、清水組に本城を破壊させ石垣は海に捨てられました。
しかし戦後再び所有権は大本に戻され、現在に至っています。
亀山城へのアクセス
●最寄り駅
JR西日本嵯峨野線亀岡駅から南へ徒歩10分。
ただし城郭は宗教法人大本の敷地であるため、見学には入口受付で許可を取る必要があります。
城のポイントも記載された境内マップ『大本と丹波亀山城』を、大本本部のみろく会館の受付でもらうことができます。
●車の場合
京都縦貫自動車道・亀岡ICから10分
駐車場は駅周辺のコインパーキングを利用
明知光秀の城「周山城」
周山城は丹波攻略を進める織田軍・明智光秀が東丹波の支配拠点として築いた山城で、急峻な山上に巨石を積み上げた総石垣の山城。
本丸を中心に東西南北に曲輪の造成が残り、山全体が城ともいえる形状でした。
山崎の戦いで敗れた明智勢の郎党によって破壊されたといわれており、光秀没後3年で姿を消しています。
訪れた際は近くにあるウッディ京北の観光案内所で縄張りの案内図がもらえます。
登城路はかなり急坂で、三の郭直前はかなりの急斜面を横断しないといけないため注意が必要です。
周山城へのアクセス
●最寄り駅
JR東海道本線・京都駅からJRバスに乗り約80分、「周山」バス停で下車
●車の場合
名神高速道路・京都南ICから65分
京都縦貫自動車道・八木東ICから35分
駐車場は京北町役場隣のウッディ京北の駐車場を利用
どちらも徒歩60分の上り坂です。
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柏原城または八幡山城と呼ばれる明智光秀の城は、長い間謎の城でした。
光秀と親交があった京都・吉田神社の神官、吉田兼見による日記「兼見卿記」には、天正7年(1579)10月の欄に、「加伊原(柏原)新城を普請中の光秀を見舞った」との記述があります。
帰りには鮭5匹を土産にもらったそうです。
さてここに登場する加伊原(柏原)新城の位置が判明せず、金山城のことではないかといわれていました。
京都府・大山崎町歴史資料館館長の福島克彦さんは、この「加伊原」という地名に着目。
加伊原新城(柏原城)は、八幡神社境内光秀が築城した八幡山城のことではないかといっています。
金山城も最近では柏原町に入っていますが、当時郡堺にあった金山を加伊原と呼んだとするのは大いに疑問があるというのがその理由です。
丹波市教育委員会文化財課は「八幡山城については、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』により曲輪や堀切の存在が確認されており、城郭遺構として周知されている」としています。
一方、史料に八幡山城の記述がないため、明智光秀によって築かれた陣城であるというのは伝承の域を出ないとの見解を示しています。
つまり城はあったが、明智光秀が築いたものという証拠はないということでしょう。
天正10年に柏原城(八幡山城)は廃城となり、八幡神社の社殿等も再建されています。
柏原城(八幡山城)へのアクセス
●最寄り駅
JR福知山線柏原駅から徒歩10分
●車の場合
舞鶴道春日ICから国道175号線へ
駐車場は無し
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