2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一が、農民から勘定組頭になるまでたったの2年です。
時代が彼をそうさせたというより、渋沢栄一の才能が高く評価された故でしょう。
藩札を信頼のおけるものとし、藩の財政を潤し領民を富ませた栄一ですが、それだけではありませんでした。
栄一は江戸や大阪の商人や両替屋らと交流するうち、日本の金融や流通にも精通していったのです。
渋沢栄一・商才を発揮した子供時代のエピソード
渋沢栄一の父は血洗島村にある本家筋の出でしたが、低迷していた中の家を再興するため養子として入った人です。
そして見事建て直した手腕を、栄一はつぶさに見て学んでいたのです。
栄一は父の命で家業を覚えるため、父に同行し藍の葉を買い付けに歩きました。
父は藍の葉の鑑定眼には確かなものがあり、栄一もそれを実際に自分で見て習得していったのです。
14歳になり一人で藍の葉の買い付けに出向くようになると、父さながらの鑑定眼を発揮します。
肥料が少ない藍の葉、肥料の質が良くない藍の葉などを的確に見抜く栄一に、藍農家の大人たちは「すごい目利きの子供がきた」と感嘆の声を上げたそうです。
やがて商売のコツを掴んだ栄一は、藍の栽培農家の競争心を煽る工夫を始めました。
藍農家を藍の質によって番付表で発表したり、招待した宴会での席順も上座から横綱を座らせるなどして、藍農家同志を競わせ品質の向上を図ったのです。
まだまだ子供のカテゴリに入る年齢だった渋沢栄一がここまでできたことに驚くばかりです。
商人の才を発揮する渋沢栄一「青天を衝け」2021年NHK大河ドラマ
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渋沢栄一は建白魔だった
一橋家の勘定方を改革しただけではなく、垢が積もった藩政を改革すべく、次々と建白書を提示していきました。
本来であれば、そうした行為は疎まれることが多く、成功は厳しいのが常です。
しかし渋沢栄一はやってのけます。
目的を明確にし、必ずやり遂げるとく固い信念を持っていたのは言うまでもありません。
自分の意見をごり押しするのではなく、人の意見にも真摯に耳を傾け、よくよく話し合うということを決して忘れませんでした。
これが一橋家の家臣たちから信頼を得ることに繋がり、行政組織の改革を成功に導いたのです。
また藍農家の農民たちを競わせた番付表同様、人のやる気を出すことにも長けていました。
人のモチベーションを上げそれを維持し目的を達成する、そんな人心を掌握するという術にも優れていたというのも、渋沢栄一の才能の一つといって良いでしょう。
これが長じて渋沢栄一を近代経済社会の指導者にした大きな資質だったことは疑うまでもありません。
このころの日本の状況
渋沢栄一がせっせと藩政改革を行い、一橋家の台所を潤し領民の生活を向上させていたころ、日本はどんな状況だったのでしょうか。
栄一が勘定組頭に出世する2年前、1864年7月に禁門の変が起きています。
長州藩は前年の8月18日の政変で京を追放されていましが、藩主の赦免とともに復讐に燃えて京に攻め込んできたのです。
なぜなら禁門の変の1か月前、新選組により多くの同志を惨殺されていたからです。
この時、総指揮をとっていたのが徳川慶喜です。
が群を抜いた活躍を見せていたのは、薩長同盟前の薩摩藩でした。
一橋家の領内を歩いて募兵を行っていたのが、その1年後1865年です。
1866年、京に戻った栄一は勘定組頭に抜擢されました。
一橋慶喜は朝廷と幕府の間に挟まれた形で、立場上かなり苦しい毎日を送っていたはずです。
幕末の騒乱の中、まったく違った場所で渋沢栄一が活躍していたのかと思うと、歴史の不思議を感じないわけにはいきません。
その後の渋沢栄一も、なぜか血で血を洗うような戦いとは無縁の中で明示を迎えることになります。
日本の歴史が彼を必要とした、そうとしか思えない渋沢栄一の人生を続けて紹介していきましょう。
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